HOME 戻る 画像下にチラシについての詳しい解説がございます。

イラスト解説・説明/荻田 清(梅花女子大学教授)
題字は橘右一郎さんの寄席文字。デザインは落語工房です。
【月瀬尾山 梅渓道の栞】※チラシ右側に使用
 第五回最終回のチラシに使用しましたのは、暁晴翁作・松川半山画の「月瀬尾山 梅渓道の栞」(縦34.6糎×横47.7糎)という一枚摺の右半分です。
今回のネタに旅ネタはないのですが、上方落語といえば東の旅、その「発端」は落語家修業の出発点です。
右下の「大阪」から出発し、玉造・深江・松原・豊浦・暗峠・ムロノ木峠・追分・尼ヶ辻、そして奈良となります。また、八ケンヤ(八軒家)の前には淀川が流れ、上って行くと守口・佐太・枚方とあり、伏見まで続きます。奈良の上に「月之瀬」があり、この一枚摺の目的は大阪や京都から月ヶ瀬に行く道順を記した鳥瞰図でした。

月瀬尾山 梅渓道の栞
此の梅渓(うめだに)といふは山城・大和・伊賀等の三国にわたり、梅林の山村凡そ十有五ヶ村に及べり。就中(なかんづく)月瀬・尾山・長引等をもつて魁とす。
如月の盛りのころは香気馥郁(ふくいく)として実に海外の佳境に至るがごとし。故に衆客梅の吉野といふも宜(むべ)なり。さる程にまだ見ぬ人のために、こゝに順路のあらましを図して、道のしるべとなすこと爾(しか)り。

   京都よりの街道には
伏見より奈良街道玉水に至る神童子越え、瓶原(みかのはら)より笠置・柳生・高尾を経て桃香野・月瀬・尾山に至る。行程凡そ十四里余。
又、嶮路をいとふ人は北笠置より大河原、夫より田山にいたり、長引・尾山・月瀬に着す。行程凡そ十五里余。

   大阪よりの街道は
玉造・深江・松原を経て暗峠を越へ、南都におもむき滝阪より石切峠・水間峠・大橋・北野を経て、月瀬・尾山にいたる。行程凡そ十五里余。
又、京街道橋本より八幡・天神の森・祝園(はふぞの)を経て木津にいで、加茂・笠置・柳生・高尾の順路を往く。凡そ二十里余。
尚委しくは下の図を見てしるべし。

上の文章は暁晴翁、地図の案も晴翁と思われます。上方らしい淡い色で各地の様子をみごとに描いたのが松川半山です。
大阪文化をゲバいイメージにしたのは戦後のことでしょう、江戸時代後期は上品なものだったのです!!

 暁晴翁は暁鐘成(あかつき・かねなり、あかつきのかねなる)といった風雅人。戯作等も多く残しており、大阪の研究には欠かせない人です。
嘉永五年(1852)に弟子に名を譲って晴翁となります。松川半山は明治になると教科書の挿絵など描いて謹厳な感じを与えますが、父親は大阪の有名な狂歌師で、若い頃の作品には遊びの本の挿絵も多く、たいへん洒落た人でした(荻田清「松川半山の初期作品 画口合を中心に見て」『上方文藝研究』2号2005.5)。余談ですが、わたしはこの人に心酔していた時期があり、年賀状に下手な絵や図を入れては「桜山長海」を名乗っていたことがあります。

 この一枚摺には袋(縦17.4糎×横12.6糎)も残っています。「月瀬尾山 梅見独案内」「暁晴翁著 松川半山」
とあり、道標の横で一服している旅人と行脚の僧が描かれています。口を半開きしたやさしい(やや阿呆らしい)顔の人物が、この人の特色です。
参考資料 左から、梅渓道の栞・左半分、道の栞・袋表、道の栞・袋裏

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